手渡すことと受け取ること
ある日の出来事
"この人は行動力があって素敵だな"
ある時、とある人と話していて感じた。
伝えてみようか、伝えないでおくか
自分の中で迷いが生じた。
迷いの中で
人に褒められると嬉しい
"いつもありがとう"
さりげない一言だけでも、言ってもらえると心の中がじんわりと温められ、"あぁ次も頑張ろう"という気持ちになる。
きっとこれは他人から自分を見てもらえている、認めてもらえていると感じるからだ。
自分で自分を認められたらそれほど生きやすいことはないと思うが、やはり生活していく中で他人のある程度の評価は必要だと思う。
僕は他人から温かさを受け取り、喜びを感じているが、はたして僕自身は他人に対してそれと同じことをできているのだろうか、、
もらうだけでなく、自ら与えられる人になりたい。
今まで、目の前の相手と接している中で、心の中で相手のいいところを呟くことはあった。しかし、よく分からない羞恥心が邪魔をして、それを言語化して相手に伝えることはあまりしてこなかった。
自分自身が見てもらえているかどうかは、本当のところでは分かり得ない。だが、自分から、自らの心の言葉を相手に手渡しすることは無限にできる。
それってとてもすごいことなのではないだろうか
決断
相手を真っ直ぐに、深く見つめて素直に感じる。
見てもらうことよりも与えることに力をつくていこう。
「〇〇さんって、すごく行動力があって素敵だなぁと話してて感じました」
自分の中で結論がでたと同時に、僕の口は自然と動き出していた。
自分自身でいること
新たな形の学び舎
その学び舎は山の中にあった。
周りには豊かな自然が広がる。
車の音や街の騒音の代わりに鳥のさえずりや風の声、川のせせらぎが聞こえてくる。
外の世界からは程遠く、ゆったりとした時間が流れていた。
そこでは、勉強をさせるということはしない。
もちろん、勉強をしたいと自分が思えばすることができる。
基本的に、1日どう過ごすのかはすべて子どもたち(小学生)が決められるのだ。
子供たちが自分で考え、なにをするのかを決断し、それを実現できる環境がそこにはある。
子供も大人も自分自身でいること
そこで大切にされていることの一つにこんなものがある。
「子供も大人も自分自身でいること」
"自分自身でいる"とはどういうことだろうか?
いつからか、誰にも嫌われないことを心のどこかで思いながら生きるようになっていた。
高校で過ごす僕は他人の評価を気にして、心に仮面を被り、本当の自分の気持ちに蓋をしていた。
無理にポジティブに考えようとし、負の感情を自分の中から徹底的に取り除くようにしていた。
そんな風に過ごしてきた僕には、"自分自身でいる"ということの難しさと大切さが痛いほど分かった。
自分の心の声を聞こうとしなくなると、どんどん自分を失っていく。自分が分からなくなる。そうしているうちに、人生の意味さえわからないまま一生を終えてしまう。
そんな人間にはなりたくなかった。
僕にとって、"自分自身でいる"ということは
子供たちと過ごす中で、たどり着きたいたい自分の姿でもあったのだ。
そして、その学び舎には教育や生き方に対して、熱い思いを持った大人がたくさんいた。
その人たちが語る言葉は、既成概念にとらわれず、柔軟で奥ゆかしいもので、僕の心に深く染みるものばかりだった。
この学び舎で過ごすことは僕のやりたいことであり、なりたい自分になるための時間であることを強く感じた。
"自分自身でいること"
それは、ありのままの自分を受け入れ、認めること。そして他人を評価したり、批判することはせず、相手を受け止めることであるのだとわかった。
多様性が生きるということ
井の中の蛙大海を知らず
井の中の蛙大海を知らずという有名なことわざがある。
視野が狭まることは、無知であることと同じであることをよく示している言葉だ。
多様な価値観や考え方を知り、認めることは
大海を知る第一歩であるのだと思う。
多様性を認めることが近年社会的に重要視され始めている。
学びの場所でも、もちろん多様性が現れる。
特に公立学校では、いろいろなタイプの家庭が集まる。
それに対して、独自の理念を持った学校やオルタナティブスクールなどでは、同じ思想の家庭が集まりやすくなる。
そういった意味でオルタナティブスクールなどに対し、公立学校は多様な人がいるといえると思う。
公立学校であれ、オルタナティブスクールであれ、多様な在り方を認めることが大切であると最近しみじみと感じる出来事があった。
あるお母さんと話した時、こんなことを言っていた。
ある日、お父さんがスーツで子供を迎えに行った。その服装を見たほかのお母さんたちが、スーツは変だと笑ったのだ、、と。
今僕がいるオルタナティブスクールでは、比較的ラフな服装の人が多く、それとは対照的であるスーツという服装に他のお母さんが違和感を感じだのだろう。
これは言わずもながら、多様性を認め合えている環境とはいえない。
同じ思想の人が集まることの怖さはここにあると思う。
決まりきった一つの在り方に違和感を感じ、新たな価値観に踏み出したはずが、結局は別の一つの価値観に囚われるという本末転倒な状況を作り出している。
人が分断する時は、「こうあるべきだ」という閉まりきった考え方に囚われ、視野が狭まり、多様性を認められなくなることから始まるのだと思う。
こうあるべきを超える
多様性が生きた状態とはどういうことだろうか?
僕は、そこにいる1人1人の心の許容範囲が広がっていっていることだと思う。
目の前にいる相手の見た目や考え方、行動を許せる(認められる)のか、、
そこに全てがあると思う。
例えば、髪を長く伸ばしている男の子がいるとする。
男なのに髪が長くて気持ち悪いと思うのか、
男でも髪が長い人もいていいよねと思うかでは、それが環境に及ぼす結果は大きく異なる。
"こういう人もいていいよね"
"こういう在り方もあっていいよね"
1人1人がそういった考え方で、相手や物事を認められる範囲が広い状態のことこそ、多様性が生きているといえるのだと思う。
多様性があるだけでは不十分だ。
こうあるべきを超えて、自分や周りを見つめ続ける
そういう意識を持つことこそ、私たちが狭い井戸を飛び出し、池を超え、ついには大海へ飛び出すことに繋がるのだと感じてやまない。
僕が高校を休学した理由
かの有名なスティーブ・ジョブズの言葉の中に、こんな言葉がある。
「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは本当に自分のやりたいことだろうか?」
僕の挑戦はこの言葉から始まった。
17歳の冬、高校で過ごすことに限界がきていた。窮屈な学校生活と勉強に追われる日々、、
僕は高校で過ごすことの意味を見失い、学校教育そのものに対して、疑問や怒りが湧きあがっていた。
僕は教室の窓からよく空を眺めた。
空が一瞬一瞬表情を変えてゆく様に心惹かれる。僕は空が好きなのだ。
ある日、授業を聞くことに嫌気がさし、開いていたノートの上に無造作にペンを置いた。
いつものように教室の窓から空を眺める。
その日の空は、前日の曇り空とは打って変わり、気持ちがいいほど澄んだ青空が広がっていた。
眺める場所は同じでありながら、昨日とは全く違う空。
空は、世界は毎日一瞬一瞬生まれ変わっているんだよなあと感じた。そんなことを考えていると、ふとジョブズの言葉が浮かんできた。
僕は"今"という時間を大切に過ごせているのだろうか?今僕が本当にやりたいことはなんだろう?
自分へのそうした問いと同時に、なりたい自分の姿や教育への疑問が自分の中から湧き上がり、気づけばペンを手に取り直し、夢中でノートに書き殴っていた。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、ペンを置いた時には、真っ白だったノートの上には黒板に書かれた文字ではなく、自分の心の声で溢れていた。
勉強をすることの意味を見失っている今、これから一年間という貴重な時間をかけて、大学受験をすることはいまの僕が本当にやりたいことなのだろうか?
いや違う。
僕には今、学びたいことがある。
僕には今、知りたい世界がある。
僕には今、触れたい価値観がある。
僕には今、会いたい人たちがいる。
そうして確かなことに気づいた。
今僕がやりたいことは学校(ここ)にいることじゃない。
限りある人生、一瞬一瞬を大切に生きていきていこう。
そんな思いから、目の前にある決められた道ではなく、今自分が信じ心の底から歩きたいと思える道を進むことに決めた。
そうして、学校を一年間休学し、自分の飛び込みたい世界へと身を投じた。
その世界とは、山口県のオルタナティブスクールという形の教育の場だ。
紆余曲折あり、そこで研修生として一年間働かせていただけることになった。
こうして、僕の新しい世界線での学びが始まった。
ここには、僕がその教育の場を通して感じたこと、学んだことの記録を残していこうと思う。