多様性が生きるということ



井の中の蛙大海を知らず


井の中の蛙大海を知らずという有名なことわざがある。

視野が狭まることは、無知であることと同じであることをよく示している言葉だ。

多様な価値観や考え方を知り、認めることは

大海を知る第一歩であるのだと思う。


多様性を認めることが近年社会的に重要視され始めている。

LGBT身体障害者、外国人などその範囲は幅広い。


学びの場所でも、もちろん多様性が現れる。

特に公立学校では、いろいろなタイプの家庭が集まる。

それに対して、独自の理念を持った学校やオルタナティブスクールなどでは、同じ思想の家庭が集まりやすくなる。

そういった意味でオルタナティブスクールなどに対し、公立学校は多様な人がいるといえると思う。


公立学校であれ、オルタナティブスクールであれ、多様な在り方を認めることが大切であると最近しみじみと感じる出来事があった。


あるお母さんと話した時、こんなことを言っていた。

ある日、お父さんがスーツで子供を迎えに行った。その服装を見たほかのお母さんたちが、スーツは変だと笑ったのだ、、と。


今僕がいるオルタナティブスクールでは、比較的ラフな服装の人が多く、それとは対照的であるスーツという服装に他のお母さんが違和感を感じだのだろう。


これは言わずもながら、多様性を認め合えている環境とはいえない。


同じ思想の人が集まることの怖さはここにあると思う。


決まりきった一つの在り方に違和感を感じ、新たな価値観に踏み出したはずが、結局は別の一つの価値観に囚われるという本末転倒な状況を作り出している。


人が分断する時は、「こうあるべきだ」という閉まりきった考え方に囚われ、視野が狭まり、多様性を認められなくなることから始まるのだと思う。


こうあるべきを超える

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多様性が生きた状態とはどういうことだろうか?

僕は、そこにいる11人の心の許容範囲が広がっていっていることだと思う。


目の前にいる相手の見た目や考え方、行動を許せる(認められる)のか、、

そこに全てがあると思う。


例えば、髪を長く伸ばしている男の子がいるとする。


男なのに髪が長くて気持ち悪いと思うのか、

男でも髪が長い人もいていいよねと思うかでは、それが環境に及ぼす結果は大きく異なる。


"こういう人もいていいよね"

"こういう在り方もあっていいよね"


11人がそういった考え方で、相手や物事を認められる範囲が広い状態のことこそ、多様性が生きているといえるのだと思う。


多様性があるだけでは不十分だ。


こうあるべきを超えて、自分や周りを見つめ続ける


そういう意識を持つことこそ、私たちが狭い井戸を飛び出し、池を超え、ついには大海へ飛び出すことに繋がるのだと感じてやまない。