本物と共感

f:id:green_curtain:20211218225048j:plain 本物


本物を感じたい。

いつからかそう思うようになった。


テレビや映画、ネットに本、、

その中に広がる世界や情報は本当に存在しているのだろうか。


言ってしまえば、自分の目で見ていないもの(体験していないもの)、それらはすべてフィクションである。


本当の世界はどうなんだろう、自分だったらどんな風に見えて、どんなことを感じるのだろう、、


自分の目を通して見て、感じたものだけが自分にとっての本物になるのだと思う。



最近、何事も"量より質"だなと思うようになった。


「ともだち100人できるかな」という有名なフレーズがある。

僕は、100人も友達を作る必要は全くないと思う。

もちろん人間関係が広く、人脈があることはすごいパワーを秘めている。

それはそれでとても良い。


だが僕には、薄っぺらい付き合いをする人が100人いることよりも、深く本物の付き合いができる人が1人でもいることの方が意味があると感じてやまない。



誰しも心の中では、本物の存在を求めているのだと思う。

それを家族や結婚、恋人や友人という様々な形で手にしようとする。

しかし、そんな本物の存在に出会うことができる、あるいはその存在に気づくことができるのは数少ない人である。

それでも、心のどこかで本物を見つけようとし続けるのが人間なのかもしれない。




共感の先へ




以前までは、誰かに共感されることを求めてきた。


高校にいる人とは全く違う選択をし、周りの友達や学校の先生からは"休学などやめた方がいいのではないのか""逃げているだけではないのか"と、何度もとめられた。

それはそれでとてもありがたいことだとも思っていたが、やはり同じことを繰り返し何度も言われると自信がなくなってきて、自分の思いも揺れた。


そんな時、自分の背中を押してくれた人に出会うとすごく救われた気持ちになった。


しかし、今思えば他の人から何か言われることによって自分の覚悟を高めていったのだと感じる。

むしろ何か言ってもらいたかったのかもしれない。


誰かに止められることで、自分の意志を何度もテストしていたのだ。

それを何回も繰り返し受けることで、本当に自分に力(覚悟)があるのかを確かめていたのだ。


それは今は、他人ではなく自分自身でも問い、確かめる。



山口に来て、もう半年以上たった。

今、僕の周りにいる人は、僕のことを受け入れてくれただけでなく、僕を育ててくれた。


枯れそうだった僕の体に、周りの人の優しく、温かい言葉のシャワーが降り注いだ。


その水は、僕の"自信"という葉を大きくさせ、"自分"という根を深く、丈夫なものにしてくれた。


ありがたいことに、今は自分自身に胸を張れ、自信を持てている。


最近、新たに同じ考えを持つ人と繋がることが多くなってきた。


その人たちと話していると、自分の他にも同じ考えを持っている人がいるんだ!ととても嬉しくなる。

話をしていると、お互いの考えに共感し、同じ志を持つ人との出会いにとても胸が熱くなることもある。


だが、今の自分は何か物足りなさを感じていることに気づいた。

何が自分にそう感じさせるのだろう、、

考えていてふと思った。あぁ、僕は今誰かにただ共感してほしいわけではないんだなと。

共感だけでなく、新たな刺激を求めているのだと気づいた。


同じ考えを持っていることは大前提としてあるが、僕が欲しているのは今までの自分の見方を変え、新しい世界線を見せてくれる人なのだと思う。

共感のもう一歩先へ、行きたいのだ。


自分の中である程度考えが固まってきた今だからこそ、その先へ進みたいと感じるのだと思う。


自分が求めている新しい形への旅は続く。