勉強は遊びだ
振り返りノート
1日の終わり、子どもたちが鉛筆を手にとり机に向かっている。
通称"振り返りノート"というノートが1人1冊用意されている。
子どもたちがその日にあったことや感じたことを1日の終わりに、好きなだけ書いていく。
問題だして!
"子どもたちとの距離を縮めたい"
そんな思いもあり、ある時から私は振り返りノートにお返事を書くことにした。
読み始めてしばらくすると、子どもたちのノートには驚くほどの"情報"が詰まっていることに気がついた。
そこにはまるで夜の星空のように、無数の子どもたちの成長と発見が散りばめられていた。
夜空に目を凝らし、次第に姿を現し始める小さな星を見つけるような感覚で私はノートを読むようになった。
お返事書きは自然と私の中でちょっとした楽しみになっていったのだ。
ある日、いつものようにノートを開くと、ある子の振り返りの文章の下にこんなことが書いてあった。
「問題だして!」
私は悩んだ結果、自分のことをクイズにしたり、なぞなぞをだしてみたりした。
すると、それが想像以上に楽しかったのだろう、その子は問題を解くことに味をしめ、毎日問題を求めるようになった。
"さてどうするか"
私は考えた。そしてふと思った。
算数の問題でもだしてみたらどうか。
早速、私はその子に算数の問題をだしてみた。
するとどうだろうか、その子はクイズを解くような軽やかさで、なぞなぞを考える時のように前のめりに、その問題を解いていった。
そして、目を輝かせ、意気揚々と"これであっているか"と聞きにきたのだ。
この子には"算数の問題"と"クイズ"の垣根は存在していなかった。
どれちらも同じ"遊び"なのだ。
本来、勉強はゲームであり、学びは遊びである。目の前の子どもからそう感じずにはいられなかった。
他者からやらされるでもなく、プレッシャーからでも妥協でもない、自らの心の底から湧き出た意思。
そこにはごく自然な"学び"が生まれていた。
子どもたちは、すでに火をつける材料を持ち合わせている。
準備はもう十分すぎるほどできているのだ。
あとはそこにこちらが火をつけられるか、どれだけ大きく長い炎を灯せるか、にかかっているのであるのだと思う。
興味や意欲がないのではない。すでにあるのだ。それを秘めている胸の内からどれだけの花を咲かせられるのかを一番に考えていきたい。
今までぼんやりとしていたが、自分の理想とする教育像がゆっくりと、しかし着実に形になってきたように感じた。
言葉と心
心の窓
言葉
それは心の窓だと思う。
同じ言葉でも覗く時々によって見える景色が変わる。
同じ言葉でも覗く人によって見える範囲が変わる。
言葉を見ればその人の思考が覗け、
言葉を変えれば思考や心も変わるのだと思う。
本当の景色を眺めるためには、頭でその意味を理解するだけでは十分ではない。
自らの経験と向き合った時間で、頭から心にその意味をそっと落とし込めた時、純粋で深みのある表情を眺めることができるのだと思う。
そしてその表情は変化する。
自分が過ごしていく中で得た知識、経験がその窓縁を広くさせたり狭くさせたりするのだ。
言葉をいい加減に扱うことは簡単なのかもしれない。
ただ、それは自分の心をぞんざいに扱うことと同じことだ。
心と言葉をつなげることは難しいと日々痛感する。
言葉は気持ちを伝えるにはあまり便利ではないのだと思う。
本当に伝えたい想いほど上手く伝わらない。
それでも、僕は言葉を諦めたくない。
想いや感情を表現するために言葉を大切にし、丁寧に選ぶことは誠であり、それが積み重なることで愛になっていくのだと思う。
気持ちを伝えるということ
僕は気持ちをシンプルに相手に伝えられるようになりたい。
気持ちを伝えることにはいくつかの壁が存在する。羞恥心、不安、勇気、、など。
その壁はなくならないかもしれないが、その高さを少しずつ下げ、軽やかに飛び越えられるようになれば、、と思う。
ある時、僕は無意識に自分の気持ちをストレートに表現するのではなく、無造作に言葉を言い換えて口に出していることが多いことに気づいた。
こんなことがあった。
上の学年の子が僕に対して、ちょっかいをだしてきた。
その時の僕はやることがあり、いつものようにちょっかいにかまっている暇はなく、今はやめてほしいなと思った。
その時、僕は「上の学年なんだから、下の学年の子のお手本になるように、そういうことはしないでしっかりしてほしいな」
とその子に伝えた。
しかし今思えば、あの時の僕はその子に対してとてもひどいことをしてしまったなと反省している。
というのも、この時の僕は自分の気持ちをストレートに伝えずに、遠回しで伝えていたからだ。
本来、自らの感情や気持ちを相手にそのまま伝えることは自然なことだと思う。
だが、相手を傷つけてしまう、嫌われてしまう、気まずくなる、、などと複雑で重層的に考えることで不自然な形を生み出す。
僕は心で子供と繋がるのではなく、頭で繋がろうとしていたのだと気づいた。
頭で繋がることは偽善的だ。
相手を思いやっているようで本当は自分の都合にしか目を向けていない。
頭で繋がることは本当の意味で自分も相手も幸せにはならないのだと思う。
そして、心で繋がることは対子供においてはより大切な意味を持つ。
シンプルに気持ちを伝えるというだけなら、純粋に澄みきった形で子供に伝わる。
しかし、それをストレートに伝えないことは、自らの偏見や固定概念という不純物が加わった濁った形で子供に伝わるということだ。
あの時の僕は、「上の学年なんだから」などというもっともらしい理屈をつけ、僕自身の
"子供に嫌われたくない"という弱さを婉曲表現を使うことで守っていたのだ。
結局、自分のことしか考えず、本当に大切な目の前の子供のことを疎かにしてしまっていた自分自身が、本当に情く感じた。
僕の在り方や行動の1つ1つが、子供に様々な形で影響を与えうる。
そんなことを突きつけられたような気がする。
今の僕もそうだが、教育の最前線にいる人たちは皆その責任やリスクを抱えながら、過ごしているのだと思う。
だからこそ、毎日丁寧に自分と向き合い、
折々の選択を大切にしていきたい。
相手を変えるのではなく、まず自分が変わる
今までの僕は、心のベクトルが内(自分自身)ではなく、外(子供)に向いていた。
どう子供たちに伝えよう、どう子供たちを変えていけるだろう、、と。
しかし、考えるべきことはそれだけではない。
僕自身が変わる。
まずはそこから始まるのだ。
自らが行動を起こし、自らの態度で子供たちに示していく。
子供を変えていくのではない。
僕自身が変わることで子供も変わっていくのだ。
僕が大切にしたいことは、自分の心の底にある本当の気持ちをキャッチし、それを言語化して相手に伝えること。
そして、相手の気持ちを受け止める(認め合える)ことができることだ。
今、僕は自分が大切にしたいことをにできているのだろうか。
いや、僕はまだできていないというのが現実だ。
これは子供たちにできてほしいことでもあり、僕自身ができるようになりたいことでもあったのだ。
この気づきを次に繋げたい。
気づいたいた時に蔑ろにしないで立ち止まること。
止まったままではなく、再び新たな一歩を踏み出すこと。
この2つは人生でどちらも大切だと思う。
"気づいた時に立ち止まり、また歩みはじめる"
その繰り返しが道を拓き、道を創るのだと思う。
"言葉と心"
あまりにも当たり前のことのようで、すでに分かりきったつもりでいたが、そうではない。
今になってようやく、それらと目をあわせて、真っ直ぐに向き合い始められた気がした。
本物と共感
本物
本物を感じたい。
いつからかそう思うようになった。
テレビや映画、ネットに本、、
その中に広がる世界や情報は本当に存在しているのだろうか。
言ってしまえば、自分の目で見ていないもの(体験していないもの)、それらはすべてフィクションである。
本当の世界はどうなんだろう、自分だったらどんな風に見えて、どんなことを感じるのだろう、、
自分の目を通して見て、感じたものだけが自分にとっての本物になるのだと思う。
最近、何事も"量より質"だなと思うようになった。
「ともだち100人できるかな」という有名なフレーズがある。
僕は、100人も友達を作る必要は全くないと思う。
もちろん人間関係が広く、人脈があることはすごいパワーを秘めている。
それはそれでとても良い。
だが僕には、薄っぺらい付き合いをする人が100人いることよりも、深く本物の付き合いができる人が1人でもいることの方が意味があると感じてやまない。
誰しも心の中では、本物の存在を求めているのだと思う。
それを家族や結婚、恋人や友人という様々な形で手にしようとする。
しかし、そんな本物の存在に出会うことができる、あるいはその存在に気づくことができるのは数少ない人である。
それでも、心のどこかで本物を見つけようとし続けるのが人間なのかもしれない。
共感の先へ
以前までは、誰かに共感されることを求めてきた。
高校にいる人とは全く違う選択をし、周りの友達や学校の先生からは"休学などやめた方がいいのではないのか"、"逃げているだけではないのか"と、何度もとめられた。
それはそれでとてもありがたいことだとも思っていたが、やはり同じことを繰り返し何度も言われると自信がなくなってきて、自分の思いも揺れた。
そんな時、自分の背中を押してくれた人に出会うとすごく救われた気持ちになった。
しかし、今思えば他の人から何か言われることによって自分の覚悟を高めていったのだと感じる。
むしろ何か言ってもらいたかったのかもしれない。
誰かに止められることで、自分の意志を何度もテストしていたのだ。
それを何回も繰り返し受けることで、本当に自分に力(覚悟)があるのかを確かめていたのだ。
それは今は、他人ではなく自分自身でも問い、確かめる。
山口に来て、もう半年以上たった。
今、僕の周りにいる人は、僕のことを受け入れてくれただけでなく、僕を育ててくれた。
枯れそうだった僕の体に、周りの人の優しく、温かい言葉のシャワーが降り注いだ。
その水は、僕の"自信"という葉を大きくさせ、"自分"という根を深く、丈夫なものにしてくれた。
ありがたいことに、今は自分自身に胸を張れ、自信を持てている。
最近、新たに同じ考えを持つ人と繋がることが多くなってきた。
その人たちと話していると、自分の他にも同じ考えを持っている人がいるんだ!ととても嬉しくなる。
話をしていると、お互いの考えに共感し、同じ志を持つ人との出会いにとても胸が熱くなることもある。
だが、今の自分は何か物足りなさを感じていることに気づいた。
何が自分にそう感じさせるのだろう、、
考えていてふと思った。あぁ、僕は今誰かにただ共感してほしいわけではないんだなと。
共感だけでなく、新たな刺激を求めているのだと気づいた。
同じ考えを持っていることは大前提としてあるが、僕が欲しているのは今までの自分の見方を変え、新しい世界線を見せてくれる人なのだと思う。
共感のもう一歩先へ、行きたいのだ。
自分の中である程度考えが固まってきた今だからこそ、その先へ進みたいと感じるのだと思う。
自分が求めている新しい形への旅は続く。
やり過ぎた後、どうするか
クリスマスプレゼント
クリスマスが近づいている。
子供と話している時に、クリスマスプレゼントに何をもらうか、、という話題がでてくることが多くなってきた。
もちろん僕にはもうサンタクロースが来ることはないけれど、プレゼントの話をする時の子供のなんとも言えない横顔を見ると、僕もワクワクした気持ちになれる。
これは、子供からもらうことができる唯一のクリスマスプレゼントともいえるのかもしれない。
ケーキ
クリスマスといえばプレゼントをもらうことと同じくらい、ケーキを食べることを思い浮かべる人は多いと思う。
ケーキは最初の一口が1番美味しい。
僕の場合、一切れ食べ終えた頃には、十分満足していることがほとんどである。
美味しいことに気を良くしてもう一切れ、、と手を伸ばしたりしてしまったら大変だ。
食べ終える前に気持ち悪くなり、しばらく動けなくなる自分の姿が目に見える。
何事もやり過ぎることはよくない。
おふざけ
小学生にとって"おふざけ"は、生活に欠かせない要素の1つなのだと、子供たちと触れる中でしみじみ感じる。
僕の過去を振り返ってみても、いつボケられるか、どの子にどうやってちょっかいをだそうか、、などとよく考えていたものだ。
おふざけは時にはコミュニケーションになったり、場の雰囲気を和ませるなど、良い面もある。
しかし一方で、気をつけないと相手を簡単に傷つけてしまうのも確かである。
やり過ぎはよくない。
知ること
"気をつけないと"などと書いたが、どうやってその"気をつける感覚"を身に付ければよいのか
それは"知ること"から始まる。
例えば、ある子がちょっかいをだし過ぎてしまい、相手を泣かせてしまったとする。
その時にちょっかいをだした本人は何を感じるだろう。
相手が悲しんでいること、泣かせてしまったことへの罪悪感、お母さんに怒られるかもしれないという恐怖心、胸のモヤモヤ、、、
様々な思いを一瞬のうちに抱えるはずだ。
これら全てに共通していることは、自分が気持ちの良い思いを抱かないということである。
こういうような気づきが何度も積み重なることが、やがて自分の経験となり、"気をつける"指標になっていくのだと思う。
大切なのは、やり過ぎてしまった時、相手や周りの人、そして自分自身すらも嫌な気持ちになるという事実を知り、感じ、己の胸に深く刻むこと。そしてそれに気づいた後、自分をどうやってこの先変えていくのかを考え、実行することだ。
知ることの土台
自分の気持ちをキャッチし、表現すること。
相手の気持ちを受け取め、考えること。
この2つのことができてはじめて、"知る"ことへたどり着ける。
僕たちが子供たちに対してできることとは、それをサポートすることやその大切さを何度も伝え続けることなのだ。
サンタクロースの友達
クリスマスプレゼントの話をしていると、サンタクロースはいるのか?という話題になった。
僕は少しふざけて
「そりぁいるよ、僕はサンタクロースと友達だしね」と冗談を言ってみた。
その直後、子供たちから大量の質問ぜめにあい、ついにはそれに答えられなくなり、黙ることを余儀なくされた。
嘘つきだ、としばらく批判された。
やはり、何事もやり過ぎはよくない。
子供たちへのプレゼント
"もっと教えて!"
その歴史の時間が終わると、1人の子が目を輝かせながら僕に近づいてきた。
僕はその子をみて、かつての自分とその子とを重ねずにはいられなかった。
歴史の時間
今いるスクールでは、なにかのきっかけがあると、歴史好きな僕が子供たちに簡単な歴史の授業をすることがある。
授業といっても、僕がパワーポイントで作成したスライドショーを流しながら、子供たちに話すという形だ。
堅苦しく難しいものには絶対にしたくないから、クイズをたくさん入れてみたり、笑いの要素を含ませたり、、と工夫しながら作る。
どういう風にすれば分かりやすく伝わるだろうか、、と考えることは大変である一方で、とても楽しい。
学びの原体験
今から8年前。
歴史に夢中になった。
きっかけは、好きな俳優が主演を務めるという大河ドラマを、軽い気持ちで見始めたことだった。
よく人生を変えた出来事などと言うが、これはまさにそうだ。
そのドラマは、当時の僕の好奇心をくすぐり、僕は驚きや感動をめいいっぱい感じた。
気づけば、僕は見事にそのドラマ、歴史の虜になってしまった。
このドラマの背景にある歴史(戦国時代)を、もっともっと知りたい!
そんなワクワクした気持ちが心の底から溢れだすのを感じた。
ついにはドラマを待ちきれず、本を読むことがあまり好きではなかった僕が、自ら本を読み漁り、調べだすようになっていた。
そして、見始めたばかりは歴史の知識はゼロに等しかったはずの僕が、ドラマが終わる頃にはめっきり戦国時代に詳しくなった。
これは、僕の"学び"の原体験だと思う。
喜び
はじめて歴史の授業を子供たちにした時、みんなの反応は予想以上によかった。
"面白かった、またやってほしい"と
何人かが言いに来てくれた。
そしてまたある子は、
"自分でもちょっと調べてみよう"とも言った。
目の前にいるこの子たちに少しでも学びのきっかけを手渡すことができた、、そういう実感が湧いた。
もちろん、自分が苦労して作ったものが実を結んだということもあるとは思うが、それだけではない"何か"が、僕にかつて抱いたことのないような喜びを感じさせた。
僕は本当に嬉しかった。
教師に必要なのは、授業をすることで全てを伝えることではない。
教師に必要なのは、授業を通して子供たちの興味を引き出し、子供たちに学びのきっかけをプレゼントすることなのだ。
あの喜びを感じた時から、そんなことを思うようになった。
再会
近々、スクールで宮島に行く機会がある。
僕はいいきっかけだと思い、宮島の歴史について授業をすることに決めた。
いつもの通り、クイズなどを織り混ぜながら子供たちに話していく。
話の途中ふと、子供たちを見た。
授業を聞く子供たちの中に、なぜか目を輝かせた8年前の僕が見えた気がした。
あの時のワクワクがまた蘇えり、8年前の僕と再会をしたような感覚になった。
僕はこの気持ちを静かに抱きしめた。
我にかえると、話を止めていたことに気がついた。
子供たちが不思議そうな顔で僕を見つめる。
そこにはもうかつての僕の姿は見えなかった。
でも、僕の心の中に大切なものが宿ったのを感じる。
声にその思いをのせ、トーンをひととき前より少し上げる。
僕は再び話しはじめた。
正解があることは楽なこと
作られた正解
普段何気なく生活していると、いつのまにか、作られた"正解のようなもの"を追いかけていることがある。
良い大学に入って良い会社に入ること、新しいスマートフォンをいち早く手にすること、お金をたくさん稼ぐこと、誰かと結婚すること、、、
正解なんて、この世の中にはないのだと思う。正解があると感じている人は、自分が無意識に、ある形を正解として決めつけているだけだ。
研修生として過ごすようになって、教育においても、正解なんて誰にも分からないなあとつくづく感じるようになった。
本当につらいこと
正解があることは、とても楽だと思う。
もちろん、その正解らしいものに囚われ、その姿と自分の現在の姿とのギャップに悩むことはあるかもしれない。
しかし、その正解らしき光を疑うことなく、追いかけることができる。
本当に苦しいのは、暗闇の中を歩くことだ。どれが本当に正しいものなのか分からない中、それでも自分が信じる光を手繰り寄せ、時にはそれは違う方向かもしれないと迷子になりながらも、それでも懸命に歩く。
それこそ本当につらいことだと思う。
そして、それが真実なのだ。
自然な形
正解がないことや矛盾が存在することこそが自然で、決められた答えなんて何一つもない。
これが絶対的な答えだというものが掲げられているものは怖い。
僕は決して答えがないことを悲観しているわけではない。
むしろ、それに今気づけたことを誇りに思う。
こうあるべきだという正解がない世界に飛び込め、悩めていることは本当に幸せなことだと思う。
理想の世界
大切なことは試行錯誤すること自体なのだと思う。
理想の世界を実現させることよりも、理想の世界を実現させるために悩み、もがくことこそ大事だ。
結局のところ、理想の世界が実現された後にもまた理想が生まれる。
人間は常に何が足りないかを考え、無限に理想を作り続けるともいえるのかもしれない。
本当の意味で、怖いことは今の状態が理想的な状態であると思い込み、現状にあぐらをか
き、努力をやめることだと思う。
正解のない世界
日々の問い
あの時の自分の行動は、子供にとってよかったのだろうか、、、"
実際に子供たちと過ごしていると、毎日その日の終わりにこんな疑問が頭に浮かび上がってくる。
この問いにはゴールがない。自分がしたことが本当にその子に対してよかったのか、それは自分はおろか、その子自身でさえも分からないものかもしれない。
正解のない世界
一度、僕は正解のない世の中に絶望したことがある。
ものごとの1つ1つに複雑な考えが入り乱れている。どれも間違っていない。
ああ言えばこういうこともできる。
僕はその思考の泥沼にはまってただ漠然とし、終わりの見えないブラックホールのような不安感が僕を襲った。
歩くのさえおぼつかなくなり、胸が苦しくなった。
いっそのこと、"死"という形でこんな世界から逃げてしまいたいとまで思った。
暗いことを考え続けることは、僕自身を疲れさせることがわかった。
とことん絶望にふけていると、とても疲れる。
そのうち、眠気が襲ってきた。重い頭を地面につけ、目を閉じた。
再び目を開けた時にはさっきとは打って変わり、自分のこれからやろうとしていることに対して、希望を見出せるようになっていた。
まさに希望の光が差し込んだようだ。
まだいける、まだ続いていく、生きよう。
そう思ったのだ。
あがき続ける
今では、正解のない世界であがき続けることにこそ意味があるのだと強く思う。
僕は考えることをやめたくない。
常に謙虚に現実を見つめ、努力をする。
昨日よりも今日を、よりよいものにするために。
僕は今日も考える。